読み切り大河小説 連載第17回


異臭


 読者諸兄は「くさい(臭い)」というと何を連想されるだろうか。下水?トイレ?おなら?靴下?人それぞれいろいろとあると思う。

 だが、おそらく私の場合は皆さんとは少し違う。その名は「ピリジン」。化学分野では重要な有機溶媒である。ベンゼン(C6H6)の構造は皆さんご存じのことと思うが、この中の炭素原子一つと水素原子一つが窒素原子一つに置き換わった構造をした黄色の液体である。

 私は大学で化学を専攻していたおかげで、通常生活では決して嗅ぐことのない「特殊な匂い」を数多く体験してきた。もちろん芳香もあれば異臭もある。だが、圧倒的に後者が多いのは悲しいことである。分析学専攻の私はまだ幸せな方で、有機化学を専攻した仲間は悲惨である。彼らは一概にこう口にする。「酒が弱くなるんだ」と。これはいつもいつも異臭に包まれ、いやでもその蒸気を吸っているために肝臓がやられてしまうのである。こうなると単に「くさい」では済まされない。それに身体に異臭が染み着いてしまい、目をつぶっていても彼らがそばに来るとわかる。『恋人がいると可愛そうだな』などとついつい同情してしまう。

 さて、話を戻そう。

 私が「くさいもの」の筆頭にあげるこのピリジンの匂いだが、皆さんはどのように想像されるだろうか。実はピリジンの匂いというのは、目にしみる刺激臭でもなければ、息も止まる猛臭でもない。ピリジンの臭さは「おおらかに包み込むような臭さ」なのである。この親の愛にも似た匂いは、誠にもってタチが悪いのだ。私がこれに苛まれた苦悩の日々の体験をお話ししよう。

 始まりは実験の授業だった。噂には聞いていたピリジンを溶媒に使った実験である。褐色のビンに入ったドロリとした黄色い液体が登場した。だが、蓋を開けても何の匂いもない。おそるおそる手のひらを団扇にして嗅いでみると初めての香り。先輩たちの言うほど嫌な匂いではない。と、そのときは思った。

 無事に実験が済んだころは、さすがに実験室中ピリジンの匂いが充満していた。このころからである。みんながピリジンの真の恐ろしさを実感するのは。匂いが身体からも鼻からも抜けないのである。なんとなくもやぁとしたなま暖かい匂いが、その後何時間もつきまとうのだ。これで確実に有機化学専攻希望者が減ったことだろう。

 翌日。目が覚めるとピリジンの匂いがする。気のせいではない。学校に来てもする。友人も臭いという。服はみんな着替えて新しい。手もしっかりと洗った。でも臭い。そのまま一日過ごしたが、ピリジンは私と一体だった。

 三日が過ぎた。さすがの私も滅入ってきた。なにしろ原因がわからないのである。私の身の回りのものがほとんどすべて臭いのである。その日、私自身の手のひらが臭いことに気づくが、洗ってもしばらくするとまた匂い出すのである。「どこかに匂いの元がある。」そう確信したものの、おおらかなピリジンの匂いはすべてを包み込み、匂いの元凶を突き止めるのは至難のことだった。

 結局、愛用の布製筆入れに染み込んでいたことが判明したときは、実験後一週間が経っていた。私の体重が大幅に減っていたことは想像していただけるだろう。