ふりむけばゲロ
続・“地響き”に捧ぐ  No.31 Y.R
 私はある筋からの依頼で路上にある自転車の整理をしていた。出しにくくないように、そして場所を取りすぎないように。性格上、一所懸命に作業に打ち込んでいた。
 折しもそのとき、横断歩道の脇に一つのビニール袋が放置されているのに、私は気づかないでいた。自転車をあらかた片づけ終わり、横断歩道を渡って道路の対岸に移動を始めたとき、足にそれが引っかかり、私は蹴躓いた。粘液状の物体を引きずった感触があったが、そのときは気にしなかったのである。
 しかし、この偶然は一台のタクシーの通過によって不幸を生んだ。私が躓いたそれは20cmほど移動したため、自動車のタイヤの通過位置とぴったり重なったのである。

スパーーーン!!  グシャシャ・・・・

 私が横断歩道を渡って少し後。ビニールの破裂音が響いた。だが、ビニールだけならまだよかったのであるが、グシャシャという音が一緒に聞こえたので、周囲の視線は一挙に集まった。
 私が躓いたビニール袋に、タクシーが轢き潰したそのビニール袋に、入っていたのはゲロに他ならなかったのである。それは破裂の勢いで、その前方10m弱の範囲にゲロをばらまいた。当然そこには歩道があり、人々が歩いていた。彼らが慌てて飛び退く様が視界に入った。もちろん、大半の人はゲロの洗礼を下半身に受けてから気が付いたのである。もう遅い。そもそも早くに気が付いていたとしても避けられるものでもなかっただろうが。
 実に不幸な事故であった。その日の夜。私がもう一度そこを通ったときにもゲロは散乱したままとなっていた。そのため、その近辺には例えようもない悪臭が漂っていた。ゲ袋を道端に捨てるのはやめてもらいたいものである。

教訓  No.512 KTJ

 あれは忘れもしない一年前。私がまだ高校一年生だった頃のお話です。
 私は府立K高校に通っているのですが、その友人Yからありがた〜い贈り物を受け取ったのです。それこそ「インフルエンザ」でした。以来二週間、私は高熱にうなされ、悲しい闘病生活を送ることとなりました。(ちなみにインフルエンザに罹るのは初めてでした。)
 いよいよゲロの話になるわけですが、その二週間というもの、食べては戻し、食べては戻しの繰り返しでした。すっかりトイレとお友達になり、意識朦朧とした中、便器とにらめっこする生活が続きました。
 ある日、とうとう何も食べられなくなり、医者にヨード注射をしてもらうことになりました(太いんだなこれが)。その夜、あの独特の胸焼けが私を襲いました。そう、調子に乗って食べ過ぎたときのあの感覚です。私はトイレに駆け込みました。待つこと10分。たまらず私は口の中に人差し指と中指を突っ込み、「エーッ!」と声を上げ、胸のつっかえを取ろうとしました。すると、出るわ出るわ、片栗粉を水に溶かしたような胃液やら、訳のわからんワカメ状のものやら・・・・しかし悲しいかな、何も食べていないため、固形物は殆ど出ないのです。そのため、私は独特の異臭の中、胃液を吐き続けました。これって、結構腹筋を使うんですよね。あまりの苦しさに、私は腹筋をツってしまいました。
 二重の苦しさの中、私はやっとのことで地獄から這い出しました。トイレにはすかりゲロの異臭が染みついてしまい、家族はとても苦労したとのことです。

 そしてすっかり立ち直ったある日、体重を量ってみると何と8Kgも減っていたのです。二週間で8Kg!本でも書こうかと思いましたよ、まったく。
 というわけで、今、私KTJはスリムになって愛機のキーボードを叩いているわけですが、あのときのことを思い出すと、今でも吐き気がします。人間というものは、やりたくなくてもやらなきゃいけないときがあるんですね。この「教訓」をあのゲロから学んだような気がします。

連鎖  No.50 偶出裏暗
 それは私がまだ小学生だった頃の夏のある日。登校中にある歩道橋の上を渡っていると、黄土色をベースに、カップラーメンの麺がそのまま見えるゲロが横たわっていました。
 私は友人数人とそのゲロの様子を見ていました。するとどこからかゲロを吐き出すときのあの音が近くに聞こえるのです。ふと横を見ると、友人の一人が急に気分が悪くなったらしく、見ていたゲロの横に新たにゲロを吐いてしまったのです。それを見ていたら、私も矢庭に気分が悪くなってきて、ゲロを吐いてしまいました。
 その後、『うわぁ〜きったねぇ〜!!』と残りの友人は逃げていき、気が付けば私とゲロを吐いた友人と二人、その場に佇んでいました。
 夏の日差しに三つのゲロ・・・・・私はこの光景を生涯忘れることはないでしょう。
秀作
指導  No.10 K.T
 小学校の低学年の頃、私は学校給食が苦手でした。好き嫌いが多かった上に、食べるのが遅かったのです。
 当時の担任の指導は「何が何でも残さず食べさせる」というもので、「好き嫌いを無くさせる」とか「我慢して食べている子もいるのに、最後までぐずった子だけが食べないで済むことは許せない」といった、善意と正義感に満ちていたに違いありません。
 そこで私がどうなったかというと・・・・・・昼休み中食べ続け、それでも終わらないので、続く掃除の時間になってもまだ食べているということがよくありました。掃除になると机は教室の前に残され、配膳台に給食を置き、立って(多くは「泣きながら」)食べていたのです。
 ある日、あまりにも嫌いな物が出た(といっても具体的にそれが何だったのかは憶えていないのですが)上に、身体の調子も悪かったのでしょう。私はいったん食べたものを器に戻してしまったのです。どろどろぐっちゃりしたものが器の中に。近くにいた先生の顔を見上げると、

 「食べなさい」

と言うのです。
 しかたなく泣き泣き食べたのですが、今でも憶えているくらいですから、よほど情けなく、恨めしく思ったのでしょう。
 この話には後日談があります。この前の夏、北海道へ行ったのですが、そこで地元の高校の先生の話を聞く機会がありました。すると、その先生も私と同じような経験をした、というのです。ああ、これは私だけの特殊な経験ではないのだ。あんな先生が全国至る所に溢れていたに違いない、そう思いました。
 今ではそういう先生はかなり少なくなったようです。その場にいた小学校の先生は、
 「牛乳なんて飲めなくていい」
と指導しているとのこと。

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